9 心が溺れる「洪水状態」とは?議論がヒートアップしたときの身体の危険信号
9 心が溺れる「洪水状態」とは?議論がヒートアップしたときの身体の危険信号
夫婦やパートナーとの話し合いが、いつの間にか激しい口論になり、「もう何を言っても無駄だ」「相手は話を聞いてくれない」と感じて、心を閉ざしてしまった経験はありませんか?多くの人が経験するこの現象について、心理学者のジョン・ゴットマン博士は**「洪水状態(Flooding)」**という非常に重要な概念を提唱しています。
これは単に感情的になっている状態を指すのではありません。洪水状態とは、パートナーからの否定的な言動によって、心と身体が処理しきれないほどの強いストレスに晒され、自己防衛システムが発動している危険な状態なのです。
この記事では、ゴットマン博士の研究に基づき、この「洪水状態」のメカニズムと、なぜこれが夫婦関係にとって深刻なダメージを与えるのかを、心理学的な知見を交えながら解説していきます。
闘争か、逃走か? - 口論中にあなたの身体で起きていること
ゴットマン博士の研究施設「ラブ・ラボ」では、口論中のカップルの心拍数や血圧などを測定しました。その結果、洪水状態に陥った人の身体には、驚くべき変化が現れることがわかったのです。
- 心拍数の急上昇: 心拍数は1分間に100回、時には165回にまで達することがあります。(ちなみに、30代男性の安静時心拍数は平均76回程度です)
- ストレスホルモンの分泌: 「闘争・逃走ホルモン」とも呼ばれるアドレナリンが分泌されます。
- 血圧の上昇: 身体が臨戦態勢に入り、血圧が急激に上がります。
ゴットマン博士は、この洪水状態が二つの理由から離婚の強力な予測因子になると述べています。第一に、それは少なくとも一方のパートナーが深刻な精神的苦痛を感じているサインであること。そして第二に、その身体反応が、建設的な問題解決を事実上不可能にしてしまうことです。
なぜ話し合いが不可能になるのか?
あなたの身体が「危険だ!」と判断すると、脳は自己防衛を最優先します。その結果、冷静な思考を司る大脳新皮質の働きが抑制され、以下のような状態に陥ります。
- 情報処理能力の低下: 相手が何を言っているのか、言葉の意味を正確に処理することが難しくなります。
- 創造性の喪失: ユーモアを交わしたり、柔軟な解決策を考えたりすることができなくなります。
- 行動の単純化: 取りうる選択肢が、最も原始的な「闘う(相手を批判し返す、防御的になる)」か「逃げる(黙り込む、その場を立ち去る=逃避**(Stonewalling)**)」かに限定されてしまいます。
× 悪い例:洪水状態での会話
妻:「また約束破った!あなたって本当に無責任ね!」
夫:(心臓がバクバクし、頭が真っ白になる。「何を言っても無駄だ」と感じ、完全に黙り込んでテレビに視線を移す)
妻:「無視するの!?ひどい!」
この時、妻は夫が自分を軽んじていると感じるかもしれませんが、夫の健一の身体の中では警報が鳴り響いています。彼は妻の言葉という「脅威」から身を守るため、シャッターを下ろしているのです。これでは、問題解決に至るはずがありません。
ゴットマン博士が紹介するポールとエイミーの夫婦の例も、この状態をよく表しています。妻のエイミーが感情的になると、夫のポールは心を閉ざしてしまいます。彼はその理由をこう語ります。
「君が叫んだり、足を踏み鳴らしたりしていない時なら、僕は話すよ。…君が傷ついたり、怒ったりして、僕を傷つけようと色々言い始めるとき、僕らは二人とも立ち止まるべきなんだ」
ポールは、エイミーの怒りの激しさに圧倒され、これ以上傷つかないように自分を守るために「逃避」を選択しているのです。これは、彼の身体が発している悲鳴とも言えるでしょう。
なぜ男性は「逃げ出し」やすいのか?
ゴットマン博士の研究によると、異性愛のカップルでは、約85%のケースで「逃げ出し」を行うのは夫側であることが示されています。これは、男性が怠惰だから、あるいは愛情が薄いからというわけではありません。
つまり、男性は生物学的に、口論によるストレスで洪水状態に陥りやすいと言えます。そのため、無意識のうちに対立そのものを避けようとする傾向が強くなるのです。これが、妻が問題について話したいのに、夫がそれをはぐらかしたり、黙り込んだりする典型的な構図の一因となっています。
洪水状態は、夫婦の間に大きな溝を生む危険なサインです。もしパートナーが議論の最中に黙り込んでしまったら、「無視された」と捉える前に、「もしかしたら、相手は心が溺れかけているのかもしれない」と考えてみてください。その視点の変化が、お互いを理解し、破滅的なサイクルから抜け出すための第一歩となるはずです。
(参考:ジョン・M・ゴットマン、ナン・シルバー著『結婚生活を成功させる七つの原則』第3章)
更新日: 2026年1月10日